川端康成『水晶幻想』

ネタバレあり!

小説書きは必読!

川端康成と言えば『雪国』と『伊豆の踊子』が定番だと思うが、それだけしか知らないあなたはだいぶ世の中を損していると言い切れる!

いやいやいや…川端なんて昭和の文豪だろ。そんなの古くて読めんよ…と思っているあなた。チッチッチッ! あまいあまい。
きっとあなたが知っている川端より川端康成はそうとうぶっ飛んでいる! 嘘だと思うならこの『水晶幻想・禽獣』を読んでみい!
最近のヒット小説なんか目じゃないくらいぶっ飛んでいて、エロくてグロいのは請け合いだ!

ともあれ、この講談社文芸文庫には初期の…といっても『伊豆の踊子』よりあとの短編が8作入っているが、今回は新心理主義時代の『水晶幻想』(昭和6年1、6月)に絞る。

まず、文体だが6年前の有名な『伊豆の踊子』(大正15年)とは全く違っており、ほんの少し触れただけで血が出るような切れ味の鋭いナイフのような文体なのだが、文章はいかにも川端である。
実体験としての死産と流産…川端のほとんどの小説から漂う死の香りが通奏低音として常に流れている。また、「メタ小説」的な箇所が文末にあるのは注目すべきところ。

この作品はジェイムズ・ジョイス流「Stream of Consciousness(意識の流れ)」を活用した伊藤整の『蕾の中のキリ子』(昭和5年)を参考にしたらしいが、私は残念ながら『…キリ子』は未読である。したがってジョイス伊藤整川端康成の流れが語れないのをお許しを願いたい。

さて、この『水晶幻想』だが、わざとわけがわからないように書いてある。ここがポイント。これは「意識の流れ」を意識して書かれているためだが、登場人物が今、頭の中で何を考えているのかを羅列している。一部引用してみよう。

「『あら。』と、夫人ははじめて彼女の手に気がついて、(ああ、美しい私の手。一日に幾十度も洗う婦人科医の手。爪を金色に色どったロオマの貴婦人の手。虹。虹の下の青野の小川。)」川端康成『水晶幻想』, 講談社文芸文庫, 1992.4, p.95
――このように丸括弧のなかは「意識の流れ」を現わしている。

もう一度書くが、わざとわけがわからないように書いてある。小説冒頭の「プレイ・ボオイ」が犬の名前だと明確にわかるのは小説の中頃であるし、丸括弧内の心理独白は一人称であるからか欲しい説明が一切なく…いや、あえて説明はしたくはなかったのだろうと思われる節がうかがえる。

わからない語句や知らない情報を一つ一つ調べ上げたが、川端という作家の奇特な人間性がまざまざと垣間見られる思いがした。川端夫人が死産、そして翌年に流産したときに川端本人も興味があってかどうかはわからないが相当に調査をしたのであろう。「穿顱術」がどのような医術かわからずに調べたときには少々嫌気がさしたくらいだった。

『水晶幻想』で着目したい点が二つある。それは「色」と「音楽」である。

まずは、色。同じく「意識の流れ」を使用した前作『針と硝子と霧』(昭和5年)では「赤」(血の色)が効果的に使われいるが、『水晶幻想』では主に「白」である。純潔の色として捉えればいいのか、交配(妊娠)の喩としての精子の色として捉えれば良いのか、それとも偽善や薄情と捉えれば良いのか、解釈に悩むところだが、川端とは切っても切れない「死」と「獣」からなる五線譜の上に乗り、繰り返されるフレーズとして考えても良いのかもしれない。

そして「音楽」であるが、小説後半にクラシック音楽の作曲者名と川端自身がレコードで聴いていたのだろうか、具体的な演奏者名も記されている。

はじめはティート・スキーパ(文中ではスキイパ)が歌う「パリアッチのセレナーデ」(1926年、大正15年録音)

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次はエンリコ・カルーソー(カルウソオ)が歌う同じくパリアッチの「もう道化はやめだ」(1910年、明治43年録音)

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後はジャック・ティボー(ティボオ)のヴァイオリン、アルフレッド・コルトー(コルトオ)のピアノによるベートーヴェン(ベエトオヴェン)の「クロイツェル・ソナタ」である。(1929年、昭和4年録音)

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「(ほんとうに夫の間抜けた姿。コキュウの顔って、あんなものかもしれないわ。(後略))」川端康成『水晶幻想』,  講談社文芸文庫, 1992.4, p.126
――とあるが、「コキュウ」は「cocu:妻を寝取られた男」だろうから、レオンカヴァッロ作曲のオペラ『道化師(パリアッチ)』の2曲を文中に入れたのは実に効果的である。
「セレナーデ」を歌うのは劇中劇の中で人妻に恋する青年。「もう道化はやめだ」を歌うはその妻を寝取られる夫である旅劇団の道化師。

軽妙で美しいスキーパの声とドラマティックなカルーソーの声の取り合わせは『水晶幻想』の愛が壊れていく夫婦と見事にシンクロしており、「クロイツェル・ソナタ」のティボーとコルトーの構成力のある演奏は作中でも言及しているトルストイの同名小説(もちろんベートーヴェンの曲から着想を得たのは承知の上)の内容を読者に思い起こさせ、この幻想的な小説に暗喩を与えてリアリズムを植え付けようとしている。

しかし、当時これらのレコードを聴いていた、いわゆるインテリゲンチャにしか通じなかっただろう。先にも書いた通り、夫人の心理描写が一人称で書かれているために説明不足になるのは仕方ないし、それならば違う方法はなかったのかとなるのだが、これはこれで良いと川端は思ったのかもしれない。

当時の行き詰った文学を打開してくれたジョイスの『ユリシーズ』だが、川端は全てを理解して読んだのだろうか? きっと理解していないと思う。
溢れるように次々と連想される言葉に酔いしれ、まるで「クロイツェル・ソナタ」を聴くように紙の上に筆を滑らせたのではないか。
そこにフロイトジョイスに比べれば読みやすい講義録で得た知識を織り交ぜ、日本風の「新心理小説」を創ろうとしたと推測する。フロイトは『精神分析学入門』にこう書いている。「ことばは、もともと魔術でした。ことばは、今日でもむかしの魔力をまだ残しています。」フロイト,S.(懸田克躬訳)『精神分析学入門』, 中公文庫, 1973.11, p.14
――と。

川端は言葉の魔術師である。音楽も古代より魔術の一つであった。『水晶幻想』はまるで音楽のような小説だ。音楽を聴くのに理解は必要ない。だから、小説を読むのにも理解は必要ない。この小説もそのように思い書いたのではと思わせる。

講談社文芸文庫 2022年 第13刷)