著作堂文月の読書ブログ

小説家、浅野文月による読書ブログ。基本的には読みたくなるような文章、読まなくても読んだ気になる文章を心がけています。

樋口一葉『大つごもり』

ネタバレあり!

樋口一葉という名前を知らない日本人はまずいないと思う。あと数ヶ月で変わってしまうが、現在の五千円札の肖像になっているし、中学だか高校の国語の授業でも一葉の名と『たけくらべ』が代表作であることくらいは習うであろう。ただし、それで一葉の文章を読んだ人はどのくらいいるのだろうか?
恥ずかしながら私は、生を受けて以来この方、一葉を一度も読んだことがなかった。

本棚の中には長らく2冊の一葉が収まっている。『にごりえたけくらべ』と『大つごもり・十三夜』の岩波文庫が…

今までなぜ読まずに積読されていたのであろうか。それは言文不一致の文語体で読みづらいと思っていたのだろうか。いつでも読めると思いながらそのままにしていたのであろうか。思い返してもはっきりしないのである。

なお、言文一致、不一致については「二葉亭四迷『浮雲』 - 著作堂文月の読書ブログ」を参照してほしい。

この三連休に少しでも積読本を減らそうと思い、薄い文庫本を手に取った。それが一葉の『大つごもり』であったのはただの偶然に過ぎない。
「大つごもり」とは「大晦日」のことであるから、1週前に読めばタイミングが良かったのだが、その時は読む動機がなかったので致し方ない。

それはともかく、大つごもりより1週過ぎて手に取った一葉の『大つごもり』であるが、まずはこの一文を読んでいただきたい。

「井戸端に出れば月かげ流しに残りて、肌を刺すやうな風の寒さに夢を忘れぬ、風呂は据風呂にて大きからねど、二つの手桶に溢るゝほど汲みて、十三は入れねばならず、大汗に成りて運びけるうち、輪宝のすがりし曲み歯の水ばき下駄、前鼻緒のゆるゆるに成りて、指を浮かさねば他愛の無きやう成し、その下駄にて重き物を持ちたれば足もと覚束なくて流し元の氷にすべり、あれと言ふ間もなく横にころべば井戸がはにて向ふ臑したゝかに打ちて、可愛や雪はづかしき膚は紫の生々しくなりぬ、」
なんと悲しくて、侘しくて、そして美しい文章なのだろう。

主人公のお峯は白金台町(現在の港区白金台)の貸し長屋百軒もっている富豪の家で女中をしている。父母早くに亡くして、小石川初音町(現在の文京区小石川1丁目・2丁目あたり)「世をうぐひすの貧乏町ぞかし、」で八百屋(と言っても棒を担いで歩き売りの)を営んでいる伯父夫妻に親代わりになってもらい育ててもらった。
「六畳一間に一間の戸棚只一つ、箪笥長持はもとより有るべき家ならねど、見し長火鉢のかげも無く、今戸焼の四角なるを同じ形の箱に入れて、これがそもそも此家の道具らしき物、聞けば米櫃も無きよし、」といった貧しい長屋に住んでいる伯父が病と聞いて見舞いに行く。
「堅焼きに似し薄布団」にて臥せっている伯父より話を聞けば、「高利かしより三月のしばりとて十円かりし、」、「九月の末よりなれば此月は何うでも約束の期限なれど、此中にて何となるべきぞ、」と苦労を聞かされる。
伯母は針仕事の内職をしているが、「日に拾銭の稼ぎも成らず、」で、甥っ子の三之助には、「貧乏なればこそ蜆(しじみ)を担がせて、此寒空に小さな足に草鞋をはかせる親心、察して下されとて伯母も涙なり、お峯は三之助を抱きしめて、さてもさても世間に無類の孝行、大がらとても八歳は八歳、天秤肩にして痛みはせぬか、足に草鞋くひは出来ぬかや、堪忍して下され、」と。
「をどりの一両二分(「をどり」とは利息。明治に入り一両=一円になったので、一両二分は一円五十銭)を此処に払へば又三月の延期にはなる、」、「大道餅買ふてなり三ケ日の雑煮に箸を持たずは出世前の三之助に親のある甲斐もなし、晦日までに金二両(二円)、言ひにくゝ共この才覚たのみ度よしを言ひ出しけるに、」と言われてしまい、お峯は伯父夫妻に2円の金の工面を約束してしまう。

カギ括弧内は原文からの引用であるが、ここまでが前半である。
先に書いたように文語体なので読みづらいと思うが、口に出して読むとリズムが取れるのでなんとなしに文章が分かってくる。ただし漢字は我々が一般的に使っている読みと違う部分があるので、ルビが振ってある原著を読んでいただきたい。

後半部分を簡単に書くと、奉公先の御新造(ごしんぞ=奥様)さんが管理をしている20円の束から2枚をくすねることになる。
「拝みまする神さま仏さま、私は悪人になりまする、成りたうは無けれど成らねば成りませぬ、罰をお当てなさらば私一人、遣ふても伯父や伯母は知らぬ事なればお免しなさりませ、勿躰なけれど此金ぬすませて下されと、」

この富豪の家は毎年大晦日にはすべての家の金を勘定して封をするという習慣がある。御新造さんがお峯に奥の間にある20円が入っている(はず)の硯箱を持ってこいと言う。
「御新造が無情そのまゝに言ふてのけ、術もなし法もなし正直は我身の守り、逃げもせず隠られもせず、慾かしらねど盗みましたと白状はしましよ、伯父様同腹で無きだけを何処までも陳て、聞かれずば甲斐なし其場で舌かみ切つて死んだなら、命にかへて嘘とは思しめすまじ、それほど度胸すわれど奥の間へ行く心は屠処の羊なり。」
窮地陥ったお峯であるが…

これ以上のネタバレはやめようと思う。実はこの小説にはもう一人重要なキャラクターがいる。そのキャラクターとお峯のとった行動がスリリングな展開を見せる、いわばイムリミットに手に汗握るサスペンス小説の体を取っている。

下のリンクから紙の本を買って読むもよし、一葉は著作権がとっくのとうに切れているので青空文庫などで読むもよし、YouTubeには朗読が上がっているのでそれを聞くもよし(その場合は必ずテキストを追いながら聞いてほしい)、原稿用紙換算30枚弱の短編なので今少しのお時間を『大つごもり』に捧げてもよろしいかと…

読んでいただけたらきっと、一葉の文章の美しさと構成力、そして情景描写と心理描写に驚くことになると思う。
また、これは明治27年に発表された小説であるが、れっきとした現代小説である。我々が抱いている明治よりもずっと江戸時代的に思えるだろう。しかし、維新よりたった20数年なのだ。さすがにちょん髷を結った者はいないであろうが、江戸期と変わっているのは刀を差している侍がいないことと人力車が町を往来しているくらいだ。

この『大つごもり』より、樋口一葉のいわゆる「奇跡の14ヶ月」がはじまる。

岩波文庫 1989年 第13刷)

 

川端康成『水晶幻想』

ネタバレあり!

小説書きは必読!

川端康成と言えば『雪国』と『伊豆の踊子』が定番だと思うが、それだけしか知らないあなたはだいぶ世の中を損していると言い切れる!

いやいやいや…川端なんて昭和の文豪だろ。そんなの古くて読めんよ…と思っているあなた。チッチッチッ! あまいあまい。
きっとあなたが知っている川端より川端康成はそうとうぶっ飛んでいる! 嘘だと思うならこの『水晶幻想・禽獣』を読んでみい!
最近のヒット小説なんか目じゃないくらいぶっ飛んでいて、エロくてグロいのは請け合いだ!

ともあれ、この講談社文芸文庫には初期の…といっても『伊豆の踊子』よりあとの短編が8作入っているが、今回は新心理主義時代の『水晶幻想』(昭和6年1、6月)に絞る。

まず、文体だが6年前の有名な『伊豆の踊子』(大正15年)とは全く違っており、ほんの少し触れただけで血が出るような切れ味の鋭いナイフのような文体なのだが、文章はいかにも川端である。
実体験としての死産と流産…川端のほとんどの小説から漂う死の香りが通奏低音として常に流れている。また、「メタ小説」的な箇所が文末にあるのは注目すべきところ。

この作品はジェイムズ・ジョイス流「Stream of Consciousness(意識の流れ)」を活用した伊藤整の『蕾の中のキリ子』(昭和5年)を参考にしたらしいが、私は残念ながら『…キリ子』は未読である。したがってジョイス伊藤整川端康成の流れが語れないのをお許しを願いたい。

さて、この『水晶幻想』だが、わざとわけがわからないように書いてある。ここがポイント。これは「意識の流れ」を意識して書かれているためだが、登場人物が今、頭の中で何を考えているのかを羅列している。一部引用してみよう。

「『あら。』と、夫人ははじめて彼女の手に気がついて、(ああ、美しい私の手。一日に幾十度も洗う婦人科医の手。爪を金色に色どったロオマの貴婦人の手。虹。虹の下の青野の小川。)」川端康成『水晶幻想』, 講談社文芸文庫, 1992.4, p.95
――このように丸括弧のなかは「意識の流れ」を現わしている。

もう一度書くが、わざとわけがわからないように書いてある。小説冒頭の「プレイ・ボオイ」が犬の名前だと明確にわかるのは小説の中頃であるし、丸括弧内の心理独白は一人称であるからか欲しい説明が一切なく…いや、あえて説明はしたくはなかったのだろうと思われる節がうかがえる。

わからない語句や知らない情報を一つ一つ調べ上げたが、川端という作家の奇特な人間性がまざまざと垣間見られる思いがした。川端夫人が死産、そして翌年に流産したときに川端本人も興味があってかどうかはわからないが相当に調査をしたのであろう。「穿顱術」がどのような医術かわからずに調べたときには少々嫌気がさしたくらいだった。

『水晶幻想』で着目したい点が二つある。それは「色」と「音楽」である。

まずは、色。同じく「意識の流れ」を使用した前作『針と硝子と霧』(昭和5年)では「赤」(血の色)が効果的に使われいるが、『水晶幻想』では主に「白」である。純潔の色として捉えればいいのか、交配(妊娠)の喩としての精子の色として捉えれば良いのか、それとも偽善や薄情と捉えれば良いのか、解釈に悩むところだが、川端とは切っても切れない「死」と「獣」からなる五線譜の上に乗り、繰り返されるフレーズとして考えても良いのかもしれない。

そして「音楽」であるが、小説後半にクラシック音楽の作曲者名と川端自身がレコードで聴いていたのだろうか、具体的な演奏者名も記されている。

はじめはティート・スキーパ(文中ではスキイパ)が歌う「パリアッチのセレナーデ」(1926年、大正15年録音)

youtu.be

次はエンリコ・カルーソー(カルウソオ)が歌う同じくパリアッチの「もう道化はやめだ」(1910年、明治43年録音)

youtu.be

後はジャック・ティボー(ティボオ)のヴァイオリン、アルフレッド・コルトー(コルトオ)のピアノによるベートーヴェン(ベエトオヴェン)の「クロイツェル・ソナタ」である。(1929年、昭和4年録音)

youtu.be

「(ほんとうに夫の間抜けた姿。コキュウの顔って、あんなものかもしれないわ。(後略))」川端康成『水晶幻想』,  講談社文芸文庫, 1992.4, p.126
――とあるが、「コキュウ」は「cocu:妻を寝取られた男」だろうから、レオンカヴァッロ作曲のオペラ『道化師(パリアッチ)』の2曲を文中に入れたのは実に効果的である。
「セレナーデ」を歌うのは劇中劇の中で人妻に恋する青年。「もう道化はやめだ」を歌うはその妻を寝取られる夫である旅劇団の道化師。

軽妙で美しいスキーパの声とドラマティックなカルーソーの声の取り合わせは『水晶幻想』の愛が壊れていく夫婦と見事にシンクロしており、「クロイツェル・ソナタ」のティボーとコルトーの構成力のある演奏は作中でも言及しているトルストイの同名小説(もちろんベートーヴェンの曲から着想を得たのは承知の上)の内容を読者に思い起こさせ、この幻想的な小説に暗喩を与えてリアリズムを植え付けようとしている。

しかし、当時これらのレコードを聴いていた、いわゆるインテリゲンチャにしか通じなかっただろう。先にも書いた通り、夫人の心理描写が一人称で書かれているために説明不足になるのは仕方ないし、それならば違う方法はなかったのかとなるのだが、これはこれで良いと川端は思ったのかもしれない。

当時の行き詰った文学を打開してくれたジョイスの『ユリシーズ』だが、川端は全てを理解して読んだのだろうか? きっと理解していないと思う。
溢れるように次々と連想される言葉に酔いしれ、まるで「クロイツェル・ソナタ」を聴くように紙の上に筆を滑らせたのではないか。
そこにフロイトジョイスに比べれば読みやすい講義録で得た知識を織り交ぜ、日本風の「新心理小説」を創ろうとしたと推測する。フロイトは『精神分析学入門』にこう書いている。「ことばは、もともと魔術でした。ことばは、今日でもむかしの魔力をまだ残しています。」フロイト,S.(懸田克躬訳)『精神分析学入門』, 中公文庫, 1973.11, p.14
――と。

川端は言葉の魔術師である。音楽も古代より魔術の一つであった。『水晶幻想』はまるで音楽のような小説だ。音楽を聴くのに理解は必要ない。だから、小説を読むのにも理解は必要ない。この小説もそのように思い書いたのではと思わせる。

講談社文芸文庫 2022年 第13刷)

 

永井荷風『来訪者』

ネタバレあり!

私より若い読者は永井荷風を読むのだろうか? そもそも私の世代でも怪しいのだが、どうなのであろう…
そんな私は荷風が好きである。
雑司ヶ谷へ墓参りにいくほど荷風が好きである。
…どんなところが好きなの? 艶っぽいところが…

艶っぽいといっても泉鏡花谷崎潤一郎とはまた違う。情緒というかなんというか…「色」とでもしておこうか。その「色」を使うセンスが飛び抜けている。
なにも男女の交わりの行為そのものを描くわけではない。思わせぶりなだけなのだが、そこに見える「色」が艶っぽいのである。

久しく荷風を読んでいなかったが、この『花火・来訪者』は読んでいなかったので買ってみました。
さて、この文庫本に入っている11篇のことをつらつらと書くとえらく長文になるので『来訪者』(昭和19年 - 発表は昭和21年)に絞りたい。

改めて思ったのは、荷風の小説は東京(江戸)の街の地理がわからないとつまらないだろうということ。
この『来訪者』は市川真間など千葉が半分舞台となっているが、やはり東京の街を知らないと小説の奥深さがわからないと思うのである。

荷風の作品の特徴の1つは街の名前・立地・風土・歴史・特色が物語に色彩を与えていることである。
荷風の代表作と言えば『濹東奇譚』だろうが、舞台は川向う(江戸東京の川向うと言えば隅田川の東である。濹=墨=隅)の向島玉ノ井。『来訪者』の重要な舞台は鉄砲洲。荷風が生まれ育った小石川。空襲で家が焼けるまで荷風が長く住んだ麻布市兵衛町(現在の六本木一丁目)4つの土地はいずれも性格が違う。また、荷風の作品に多く登場する浅草。浅草と向島は同じ下町と思われるかもしれないが、やはり違う。浅草でも浅草寺界隈と吉原ではまた違う。
なにが違うのかというと、その街の持つストーリーが違うのだ。

荷風は街のストーリをうまく使い分ける。

いかん、いかん。このままでは東京の街の紹介で終わってしまう!

さてこの『来訪者』だが、荷風には珍しく推理小説仕立てになっている。
それなのにネタバレあり! とはけしからんと思う人がいるかもしれないが、結局は推理小説になっていないところが面白い。

この小説は大きく分けて5つのパートからなっている。
Aパート:老齢の作家と家に出入りする木場、白井という2人の青年文士とのやりとり。
Bパート:知り合いの古本収集家から若き頃に書いた直筆本『怪夢録』に裏書をしてほしいと頼まれるも、贋作だと告げる(『怪夢録』のあらすじがまた面白い)。この直筆本は以前白井に貸したことがあり、白井はその帰りに木場の家に泊まっている。犯人は2人のうちいずれか… 贋作をつかまされた収集家は興信所に二人の身辺調査を依頼し、その報告書は老作家のもとにも届き、それを読みながら想像を膨らませる。
Cパート:老作家が報告書から想像を膨らませた小説内小説的妄想。主に白井視点の三人称。
Dパート:老作家は疎遠になっていた木場と白井を探しに街を歩く。白井が奇妙な生活をしている鉄砲洲の於岩稲荷(四谷怪談のお岩)あたりの探索。
Eパート:木場より白井の成れの果てを聞く。

起承転結でいったら起はA、承はB、転はD、結はEになっている。CパートはCパートで1つの短編小説となっており、その中に起承転結を持つ。また、Aパートだけでも別の小説とも読めるし、Bパートの中には『怪夢録』のあらすじと推理小説性を帯びるところに別のストーリーを見つけられる。

つまりは、虚構の中に虚構があり、また別の虚構がさらなる虚構を産んでいく、実験小説となっている。

これ以上書くのは野暮になるからやめにするが、白井が不倫をする女のどこかやくざな艶っぽさは、「ああ、荷風を読んだな…」と満足に足りる味わいがある。

現代の小説には見られなくなった艶っぽさを感じさせ、また老境になっても新しさを求めた文豪永井荷風の怖ろしさを感じる一作である。

岩波文庫 2021年 第2刷)

 

東浩紀『訂正する力』

実践する哲学者である東浩紀の最新思想である『訂正可能性の哲学』を一般読者にわかりやすくするために、具体的な実例を多く含みながら「訂正する力」という思想を解説していく。

この書は「訂正可能性」を応用した一種の政治論となっている。

この書の「はじめに」にて東は哲学とは「時事」と「理論」と「実存」の3つを兼ねそろえて、はじめて魅力的になると述べている。
第1章は「時事編」、第2章は「理論編」、第3章は「実存編」で、最後の第4章は「応用編」となっている。

第1章では日本人特有の「空気」をひも解き、「憲法改正問題」や「ジャニーズ問題」といった時事的な例を用いて「訂正する力」を披露する。

第2章ではバフチンクリプキウィトゲンシュタインといった哲学者・思想家を引用をしながら「訂正する力」の側面を掘り下げ、AIのシンギュラリティ(AIが人間の知能を超える特異点)を肯定しつつも、人間のとある特徴をつかみだしてAIによって人間社会が劇的に変わらないという一種の楽観論を繰り広げる。

第3章では具体論として「訂正する力」の作用を検証し、第4章では日本という国でこそ「訂正する力」が役立つと丸山真男本居宣長平田篤胤司馬遼太郎などを例に出して「訂正」と「幻想」から「自然を作為する」という方法を提唱する。

哲学や思想は一見小難しく見えるだろうが、東浩紀流のわかりやすさをもって誰でも現代日本の問題点を知ることができ、その解決にはどのようにしたらよいのかを考える中立的な思考方法を提示してくれている。

一読したに過ぎないので、ある部分には楽観論的過ぎる面(シンギュラリティではない)と厳しすぎる面を感じたのは事実として明記するが、東は大切なのは「考えること」とを主張(昔から「考えること」を一貫して主張している)し、いまの世界には考える人があまりにも少ないと警鐘を鳴らしている。これはとても大切なことだ。

近く『訂正可能性の哲学』を購入して、「訂正する力」の詳しくを読み解いてみたい。

上に楽観論過ぎる面があると書いたが、「訂正する力」そして「自然を作為する」は大変に説得力があり、私自身は日本の現状を打破するには「加速主義」(本書にて解説あり)と「堕落」(坂口安吾的な)だろうと思っていたが、それに代わる可能性を感じたのも事実である。

今の日本になにかしらの危機感をもっている方にはぜひ読んでもらいたい本である。

朝日新書 2023年 第1刷)

 

二葉亭四迷『浮雲』

ネタバレあり!

誰もが題名だけは知っていて、読んだことがない本ランキングがあれば確実に上位に来るだろう二葉亭四迷の『浮雲

まずはじめに言っておくが、これまで読まなかったのを後悔するほど面白かった!

きっと高校生のときに習ったと思う。日本で最初の「言文一致」小説だと。「言文一致」がなにかわからなかったら森鴎外舞姫』を読んでもらいたい。あれは「言文不一致」で、きっと読みづらいと思う。

そもそも日本は明治30年くらいまで話し言葉と書き言葉が違っていた。それを改めようと話し言葉で書いた小説第1号がこの『浮雲』。明治20-22年発表の青春リアリズム小説。

坪内逍遥当世書生気質』(明治18ー19年)
二葉亭四迷浮雲』(明治20-22年)・・・言文一致
尾崎紅葉『二人比丘尼色懺悔』(明治22年
森鴎外舞姫』(明治23年
幸田露伴五重塔』(明治25年

上記は今でも容易に書籍にて手に入る明治20年代の小説だが、言文一致は『浮雲』のみ。30年代に入ってもほとんどが不一致だったことを考えれば画期的であるが…

やっぱり最初は読みづらく感じた。
その訳を考えてみると、当時の当て字のような漢字の使い方や講談調の語りがネックになっていると思われる。

この講談調というのが長谷川二葉亭(ああ、この通称を使ってみたかった)のポイント。

当時は国会が開かれる機運が高まり、速記を職としようと模索した人が多かったらしい。
しかしながらなかなか国会が開かれない。速記者は金が入ってこない。そこで寄席に行き、講談や落語の速記をし、本にして売った。講談師や噺家は連名で出版されるから自分のもとにも金が入ってくるし、寄席にも人が増えて喜ばれる始末。そんな講談本を多く出版していたのが、大日本報弁会講談社…これがいまの講談社。といってもこの会社ができるのは『浮雲』より20年後。

まあ、それは良い。今より136年前の文章だから仕方ないのだ。
歌舞伎や文楽能楽を観たことがある方ならわかると思うが、1時間も観てれば言葉に慣れてしまい、何を言っているのかわかるようになる。
よって『浮雲』も1時間耐え忍べばスラスラと読めてくる。

さて、この『浮雲』は役人をたったさっきクビになった(官吏の免職は当時はよくあったこと)内海文三という青年が主人公。ほかの登場人物は文三と同僚であった本田昇。彼は文三と違いゴマすりが得意な男。文三の下宿先の娘のお勢(いとこにあたる)とお勢の母であり叔母のお政。
(なお、文三の亡父の弟である叔父は横浜にて喫茶店をしており単身赴任中。小説には出てこない)

この登場人物をみるとなんとなくストーリーがわかると思う。きっとあなたが思っているストーリーであっている。

この当時の小説(戯作も同じく)の人物名はキャラクターの性格から名をつける風習があった。内海文三は内向きな性格。本田昇は上昇志向な性格。お勢は文明開化の世に生まれた新しき自我を持ち勢いある女性。お政は北条政子のような性格(ステレオタイプのね)。

さて、この小説、男女の三角関係となるのだが、三角関係と思っているのは4人中3人。文三と昇とお政であり、ヒロイン役のお勢はというと…実はそう思っていない。

結果的には小説の中でお勢は文三とも昇とも結婚はしない。しかし、文三は許嫁だと思っており、昇は自分のもとにくると踏んでおり、お政は免職した文三から昇のもとに嫁に出したいと思っているが、お勢は文三と昇をおもちゃ程度にしか思っていなく、天秤にすらかけずに小説は終わる。

それがこの小説の新しさだった。封建時代の慎ましい女性像から打って変わり、自我を持つ女性像。しかし、そのお勢もかなり困ったねえちゃんで、習い事もやりたいと言えばすぐに飽きる。まじめな(その頑固なまじめさにゆえクビになる)文三に顔を赤らめ、社交的で口八丁な昇にも顔を赤らめ、母お政とは喧嘩したと思ったら翌日には仲直り。

最後に…この小説でもっとも面白い場面は第1編・第5回「胸算違いから見一無法は難題」だろう。
免職となった文三に文句をぶちまけるお政の言いよう。もの凄い語彙数をつかって文三をけなしにけなしまくる。文三は散々文句を言われた後に自室でポタポタと涙をこぼすのだが、読んでいたらこっちも涙がポタポタと落ちそうになってしまうほどお政の言いようがすごかった。

これはぜひ読んでほしい!
現行の岩波文庫は校注がついてわかりやすくなっているのでおススメです!(私が20数年前に買って積読していたものは校注なしでしたので読めない漢字とかはGoogleレンズを使って調べました)

なお、『浮雲』というタイトルのもとは、序文代りの「浮雲はしがき」に書いてあります。「アラ無情始末にゆかぬ浮雲めが艶しき月の面影を思いがけなく閉じ込めて黒白も分からぬ烏夜玉のやみらみっちゃな小説ができしぞやとわれながら肝をつぶしてこの書の巻端に序するのものは」

岩波文庫 1997年 第67刷)

 

読書ブログ開設

購入してから20年以上手を付けていないなどの積読本がざっと2000冊ほどあり、消化するために読書ブログを開設します。

このブログが皆様の読書の参考にすこしでもなればと思いつつ…

なお、ネタバレありの場合は冒頭にネタバレありと明記します。
ネタバレを見たくない人は気をつけてください。

本の写真は基本的に読んだ本をスキャンして使います。
そして記事の長さはその日の気分によって変わります。書きたいことがあればつまらなくても長くなりますし、なければ面白く有益であっても短くなります。その場合は書かねばならないことははっきりと書く予定です。

では、広大な四海への航海に出ます。