ウラジーミル・ソローキン『愛』 亀山郁夫 訳

多少のネタバレあり。鬼才・天才・変態・モンスター・狂人と言われるソローキンの17作の短編集。ただのエログロだと思って読むべからず。あなたの深層心理が臓物の中から鷲掴みでひねり出される。

本作はロシアの作家ウラジーミル・ソローキン(現在はドイツ在住)が1992年に発表した短編集である。ちなみに『愛』は1作目に収められている作品名で、原著の直訳は『作品集』である。

本書に「可能性」という短編がある。
とても短い話で、短編というよりも掌編と呼んだ方が良いかもしれない。
あらすじは(おそらく)老境に入った男が「人にはなにができるだろうか?」ソローキン著 亀山訳 『新装版 愛』, 2023, p. 56 と問う。

「湿った壁に手で触れることか? それとも、田舎者の白っぽい顔をした老婆に会うという望みを抱きながら、汚れた黒い階段を上ること?〈中略)冷蔵庫から肉を取りだすこと?」ソローキン著 亀山訳 『新装版 愛』, 2023, p. 56-57 などとあらゆることを振り返りながら、人生の斜陽に差し掛かっている自らの可能性を問う。

ちなみに言っておくが、この短編集『愛』には必要最低限の説明しか書かれていない。よって「可能性」の語り手が上に記したように老境に入った男かどうかはわからない。あくまでも私が行間から感じたシチュエーションである。

この男は「人にはなにができるだろうか?」を執拗に自らに問う。
「煙だらけの部屋を歩き回ること? 古い食器棚のガラスを泣きながら割ること? 小便をかけるか、たんにおしっこする……。だが、できることは、小便をたれること、ないしはたんにおしっこする。おしっこする。おしっこするのはきもちいい。おしっこするのはいい。おしっこするのはいい。あまったるくおしっこする。ながいことおしっこする。〈後略〉」ソローキン著 亀山訳 『新装版 愛』, 2023, p. 58
このさきはずっと「おしっこ」のことが書かれているのだが、ソローキンは決して面白半分で「おしっこ」のことなんて書かない。「人にはなにができるのだろうか?」という設問に対しての最終的な帰結が「おしっこ」なのだ。

「弔辞」という短編がある。ニコライ・エルミーロフの棺桶が音楽隊の葬送行進曲によって墓地に運ばれていく。ちなみに棺桶の中には遺体は入っていない。墓穴に棺桶が到着し、家族や友人がお別れをする。墓掘り人夫たちが一斉に棺桶にむかって射撃をする。ここで初めてニコライ・エルミーロフは遺体となる。棺桶に土が掛けられて、故人の家で通夜が行われる。友人たちが弔辞を読む。セリョージャという友人はニコライのことを偉人と称える。彼がなぜに偉人であったかを参列している人々に話す。セリョージャは生まれつきペニスが未発達で、勃起しても9センチしかない。そのために妻と離婚危機を迎えている。そんな悩みをニコライは見抜き、セリョージャから殺人を犯し、肛門性交をすれば万事大丈夫と勇気づけられ、その2つを果たしたセリョージャはすべてが丸く収まった。ニコライは偉大である。と話した後、むき出しになった勃起した股間を一堂にさらす。この勃起したペニスこそがニコライの偉大性を伝えている。

「寄り道」という短編ではこのような文章がある。
「ゲオルギー・イワーノヴィチは大声で呻きだした。血の気のうせたかれの唇はだらしなく開かれ、目はかすかに開いていた。彼の膝をよけながら、フォーミンはデスクを一回りした。ゲオルギー・イワーノヴィチの平たい尻が、開いてある見本刷りの上に覆いかぶさっていた。〈中略〉ゲオルギー・イワーノヴィチは屁を放った。毛の生えていない彼の尻がぶるんと揺れた。肉づきの悪い二つの尻の間から褐色のものが現れ、みるみる大きく長くなっていった。〈中略〉ソーセージが途切れて、彼の両手に落ちた。つづいて、先よりもやや細めで、色も薄めの二本目が出てきた。フォーミンはまたそれを両手で受けた。ゲオルギー・イワーノヴィチの短くて白いペニスが揺れたかと思うと、黄色い液体が勢いよくほとばしり…」ソローキン著 亀山訳 『新装版 愛』, 2023, p. 211-212

本書の巻末には著者ソローキンのインタビューや訳者である亀山郁夫さんのソローキン論があるので、文学史上のソローキンの立ち位置などはそちらを参照してほしい。

本書を…いやソローキンを読んで思うのは、ソローキン文学で目立つ死体愛好、同性性交やスカトロジーは人間の深層的かつ根本的願望であると知らされることだ。
「いやいや、ふつうの人間はそんなことおもわないぜ!」と思っているあなた。ほんとうにそう言い切れますか?
子どもの頃に「うんこ」「おしっこ」を面白がっていませんでしたか? 恋人や伴侶の糞尿をなめてみたことはないのですか?
性に目覚めたころに自分の性器をいじったり、手鏡を使って見えない部分を見たり、においをかいだりしませんでしたか? セックスに満ち足りていたとしてもオナニーはしないのですか?
祖父母や家族の死体に何かしらの興味を持ったりしたことはありませんか? 街で事故死体や行き倒れがいたら好奇心で見に行きませんか?
社会という共同幻想の中に入るこによって、他人には秘匿しなければ村八分にされると不謹慎のくくりに入れ、心の中にしまっているだけではありませんか?

この『愛』にある一般的不道徳性は私にとって、読み進めるうちに喜びとなっていたことを正直に打ち明けたい。ソローキンはすべての人間が承認欲求を所有しているのとおなじように、「エロス」と「タナトス」をすべての人間が根本的に持っていると確信をし、深層心理からそれを呼び起こす高度な技法をもって読者にそれらを提示をする。

国書刊行会 2023年 初版第1刷)

 

 

清水俊史『ブッダという男—初期仏典を読みとく』

ブッダ(お釈迦様)という人物を現代の倫理感でとらえることの危うさを知ることができ、無我と縁起の解説本として分かりやすい。

我々が普段お釈迦様と呼んでいるシャカ族の王子ガウタマ・シッダールタ(以下ブッダ)は現在より2600年ほど前に実在した人物である。
仏教はブッダが開祖とされている宗教であるが、現在の我々日本人が知っている仏教はブッダの思想とはおおきくかけ離れている。2600年もの年月が経っているので変わっているのは当たり前であり、本書はブッダが本来思い描いていた思想・観念を初期仏典から読み解いたものである。

とはいえ、現代の我々が知っている仏教を間違ったものとして説いているわけではない。あくまでも紀元前6世紀のブッダという人間と、ブッダが一石を投じた当時のインド宗教・思想の周辺を紹介するものである。
だから、その後に変遷していった大乗仏教の観音信仰やら阿弥陀の浄土思想などは出てこない。

ブッダは平和主義者であったのか——著者は現在の倫理観での平和主義者ではないと断じる。ブッダは男女平等主義者であったのか——これも現在の倫理観と照らし合わせると違うと断じる。

ブッダは一国の王子であった。ということは武士階級の生まれである。ご存じの通り、インドはカースト制度という身分制度が古くから——ブッダの時代よりもまえから根付いている。
上からバラモン(司祭)、クシャトリア(王族・武士…ブッダはこの階級の生まれ)、ヴァイシャ(庶民)、シュードラ(奴隷〈労働者〉)、あとはカースト外にいるシュヴァパーカと呼ばれる多くの人々である。

当時のインドはバラモン教に支配されている地域であった。バラモン教多神教の宗教であり、司祭階級がつかさどる儀式を重要とし、現世での幸・不幸は前世の業(ごう=カルマ)を引き継いだ結果と考える。よって身分階級や人生のすべてを過去世の善行・悪行から来ていると考える宗教思想である。
現世で悪事を働けば次に生まれ変われば、身分は下がり苦しい人生を送る。反対に善行を働けば次の世では、身分は上って幸せな人生が送ることができる輪廻を説く。

ここで間違えてはいけないのだが、ブッダは輪廻や業を否定していない。
ブッダの説いた先駆性は輪廻から抜けることができ、それこそが究極の目標と捉えたことである。
業の話をすれば、初期仏典では武士階級が戦争で敵兵をいくら殺しても悪因とはならないと記されている。それは武士が敵兵を倒すのは悪ではなく、職業的に善であるからだ。仏弟子アングリマーラという名の大量殺人者がいたと本著に書かれている。ただし、このアングリマーラは修行を完成させたので輪廻から抜けることができたとされている(アングリマーラは武士ではなく、犯罪としての殺人者なのだが)。

逆にマガダ国のアジャータサットゥ王はブッダに帰依をし、在家信者となったが、輪廻から離れることはない。とブッダは他の弟子に語る。これは王が父王を殺害して王座に就いたためであり、いくら仏弟子となって修行をしても五無間業(父殺し、母殺し、悟った人を殺す、僧団を分裂させた、ブッダの身体に傷をつける)を犯した者は悪の業を負うとされているからである。

ブッダの先駆性——悟りとは何か。

無我の発見と縁起の発見とされている。では、無我とはなんであろう。
「インド諸宗教において、輪廻の主体である恒常不変の自己原理を否定したのは、唯物論者と仏教だけであった。唯物論者が、物質からのみ個体存在が構成されると説き、業報輪廻の存在を認めず、結果としての道徳否定者であったのに対し、ブッダは、感受作用(受)や意思的作用(行)などの精神的要素も個体存在を構成していると説き、無我を説きながらも業報輪廻のなかに個体存在を位置づけることに成功した。これは他には見られない、ブッダの創見であると評価できる。」清水俊史『ブッダという男—初期仏典を読みとく』, ちくま新書, 2023.12, p. 173

例えばだが、ブッダは「人」という個体存在をして、「人」の自己原理を否定している。プラトンの「イデア論」的なものを否定している(ブッダプラトンより200年ほど昔の人)。ブッダの思想は「人」は骨や肉や血という部品が集まり「人」という呼称が生まれるとする現実的観念である。しかし、唯物論者のように形而上的なものは否定をせずに精神的要素も個体存在の構成要素としている。

次の縁起とは何か。
「…ブッダは、原因と結果の連鎖によって個体存在が過去から未来へと輪廻していること、そして輪廻が起こる根本原因が煩悩であることを突き止めた。そして、業が来世を生み出すには、煩悩という促進剤が必要であること——裏を返せば、すべての煩悩を断じれば、これまで積み上げてきた業もすべて不活性化することを看取した。この構造をまとめたものが縁起である。〈中略〉このように、輪廻の苦しみを終わらせるためには、無知(無明)をはじめとする煩悩を断じなければならないとの主張は、他宗教には見られない。つまり、縁起の逆観こそが、インド史上におけるブッダの創見であると評価できる。」清水俊史『ブッダという男—初期仏典を読みとく』, ちくま新書, 2023.12, p. 189

何度も言うが、ブッダは業(カルマ)や輪廻を否定していなかった。否定しないうえで、煩悩を消し去ることにより苦しみという結果の原因である輪廻から外れることができると説いたわけである。

以上、本著の簡単な解説をしたが、ブッダが生きた時代には仏教以外にもバラモン教から変革した宗教——沙門宗教が発生した時期でもある。仏教のほかジャイナ教(いまでもある)など6つの沙門宗教についての解説もあり、古代インドの宗教をうかがうきっかけにもなる。

ちくま新書 2024年 第2刷)

 

 

村上春樹『街とその不確かな壁』

多少のネタバレ有り! 読みながら幸せな気持ちになったり、悲しくなり涙をながしたり…

昨年(2023年)の4月13日に発売された本作を私は発売日に購入した。
だが、その時は他に読まなければならない本があって、すぐには読まなかったはずである。

読み始めるもなぜか、116ページで読みとめてしまった(それがなぜなのかはいまだにわからない)。
その後、読もうと思いながら、何度も何度も寝室とリビングの間を往復したこの小説は、一昨日になり、ふと続きが読みたくなった。購入してから10ヶ月以上経っている。
ふと読みたくなったきっかけはあった。
それは、雪が降っている午後にワーグナーの『ニーベルングの指環』から序夜「ラインの黄金」のとある演奏を聴いていたときに、唐突にこの『街とその不確かな壁』を手に取り、しおり(わたしは単行本や新潮文庫を読むときには備え付けられているスピンは使わない)が挟んであるページを開いた。すると文字が目から脳に伝えられ、しっかりとした映像となって人物たちが話し始めたのだ。

そのときに聴いていた『ニーベルングの指環』が有名なショルティ指揮やカラヤン指揮の録音であったらこうはならなかったと思う。この時に聴いたのはルドルフ・モラルトという指揮者が1948年から49年にかけてラジオ放送のために録音したものであった。非常にマイナーな録音であるが、初夏の朝にカッコウの泣き声を聞くように、変に力が入っておらず、自然体な演奏・歌唱で、とても耳心地がよかった。

通常、私は音楽を聴きながら読書をしない。内容が頭に入ってこないからだ。あと、これは皆さまにもあるかもしれないが、定期的に本が読めなくなる期間が来たりする。1、2週間……長ければ1ヵ月ほど。また、昔はよく電車の中で読書をしていたものだが、ここ数年は一切できない。電車の中で本を開いたらすぐに睡魔が襲ってきてしまう。なぜだろう? まったく読書とは不思議なものだ。

そういうことで「ラインの黄金」を聴きながら小説をはじめから読みなおし、ドンナーが金づちを打ち付けてヴァルハラに虹の橋が架かり、神々が渡り始めて最後の和音が響いた時に本を閉じた。

翌日の第1夜「ワルキューレ」もすんなりと小説の物語とシンクロをし(不思議なことに小説の悲しいシーンでの音楽は悲しい場面の音楽、愉快なシーンでは愉快な場面の音楽だったりするのだ)、第2夜「ジークフリート」の第2幕を聴き終えて、この日が終わった。

本日は「ジークフリート」の第3幕からスタートした。さすらい人としてジークフリートの前に出てくるヴォータン(神々の長であり、ジークフリートの祖父にあたる)が退場するときに小説の中で重要なキャラクターも退場をした。わたしはここで本当に悲しくなって泣いてしまった。涙がポロポロとこぼれた。その後、スピーカーからはジークフリート牧歌のメロディが聴こえてきた。この、老夫婦が最後のダンスを踊っているかのような暖かなメロディがこんなにも心にしみたのは初めてだった。

最終夜「神々の黄昏」に入ると、小説の物語も佳境に入っていた。小説の中の「僕」とコーヒーショップの「彼女」がマルゲリータのピザを食べて、二階に上がりささやかな愛を語り合っているときに第1幕が終わった。

第1部が177ページ、第2部が413ページといういびつなこの小説は、たった56ページしかない第3部に入る。スピーカーからアルベリヒとハーゲンとの陰謀が聴こえている。この第3部では表の世界にいる「僕」とコーヒーショップの「彼女」が出てこずに終わると知ると、急にまた切なくなってきてしまった。

購入して10ヶ月放置していた『街とその不確かな壁』は、結局は3日間、通算約13時間ほどで読めてしまった。
読めない期間はなにかしらの意味があったのかもしれない(それがなにであるのかはわからないのだが)。しかし、モラルト指揮のワーグナーの音楽は大切なきっかけとなったのは確かであり、そして、不思議なことに終始、小説の内容と音楽は連獅子の髪を振り回す親子のようにシンクロをしていた。

読み終わり、このブログのために久しぶりに本にカバーを戻してスキャンし(このブログでは電子書籍以外は実際に読んだ本の書影をスキャンして使っている)、本記事を書いているが、あらためて村上春樹さんは日本近現代文学の正当な後継者であると確信をした。確信をした部分は主人公が受動的な点である。

村上春樹文学はアメリカ文学……レイモンド・チャンドラーカート・ヴォネガットJr. の影響が濃いと言われている。わたしはチャンドラーは読んだことがなく、ヴォネガットJr. は『タイタンの妖女』しか読んでいないので、そこら辺はよくわからないのであるが、みずから動かない主人公・周りの影響によって左右される主人公は近現代の日本文学の大きな特徴の一つだと思っている。わたしは逆に能動的な主人公の小説は苦手なタイプだ。

『街とその不確かな壁』を遅くはなったが、無事に読めたことにこの上ない幸福感と充実感が得られた。
時代と自己を行ったり来たりして読者にとって多大に想像力を要求する小説であるが、ぜひ読んでもらいたい一冊である。

(新潮社 2023年 奥付には第1刷とは書かれていないが第1刷だと思う)

 

九段理江『東京都同情塔』

第170回(2023年度後期)芥川賞候補作受賞作

本作はこのブログ発表時点では、まだ単行本が発売されていない。
1月17日の第170回芥川賞直木賞発表日に発売される予定である。
よって、私は初出の「新潮 2023年12月号」にて読み、書影は出版社のサイトからひっぱってきたことも併せて記したい。

九段理江さんの著作は2年前に芥川賞候補となった『Schoolgirl』を読んだことがある。よって、著者の作品は2年ぶりに読んだのだが、本作は『Schoolgirl』とはまったくちがう読了感があった。

なんか、もの凄い作品にめぐり合ってしまったかもしれない。
原稿用紙換算200枚の中編小説なので、昨夜一晩で読み終えたのだが、読了後もの凄い疲労感に襲われ、この読書ブログも書けずにそのまま寝てしまった。それほど内容が濃い作品だった。

まず、この小説の世界観は隈研吾設計の国立競技場ではなく、当初のザハ・ハディド設計の国立競技場が外苑の西に建っている。そして、計画通り2020年に東京オリンピックが行われた。コロナウイルスパンデミックを無視して開催したので多くの死者が出たとされる、もう一つの東京。いわゆるパラレルワールドだ。

「ザハの国立競技場が完成し、寛容論が浸透したもう一つの日本で、新しい刑務所『シンパシータワートーキョー』がが建てられることに。犯罪者に寛容になれない建築家・牧名は、仕事と信条の乖離に苦悩しながら、パワフルに未来を追求する。ゆるふわな言葉と実のない正義の関係を豊かなフロウで暴く、生成AI時代の予言の書。」(新潮社Webサイトより)

読み始めてこの小説はジョージ・オーウェル1984年』のようなディストピア小説かと思ったが、進めるうちに違うということかわかった。私の読みでは、この『東京都同情塔』のテーマは「言葉の崩壊の危機」と「多様性受容の限界」の警告だと思っている。

まずは言葉だが、本書の出だし文がバベルの塔の再現。」である。
「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。(中略)彼らは『さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう』と言った。/主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。/『彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。』(中略)/こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バベル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。」日本聖書協会, 新共同訳聖書, 旧約創世記第11章より

現代社会のあらゆる複雑な問題の渦に、シンパシータワートーキョーの設計コンペに挑戦する37歳の建築家・牧名沙羅が抱える仕事と信条の乖離、22歳のもう一人の一人称・東上拓人が抱える主体性の問題。そこにシンパシータワートーキョーの建設のきっかけである「ホモ・ミゼラビリス」を創唱した謎の人物マセキ・セトが絡んで、世界を東京から言語的に浄化していく…

このブログを書いている時点では、この作品が芥川賞を獲るかわからないが、受賞ならずでも読む価値のある力作であるのは間違いない。

追記
本作は第170回芥川賞を受賞した。

(新潮社「新潮 2023年12月号」)

 

樋口一葉『大つごもり』

ネタバレあり!

樋口一葉という名前を知らない日本人はまずいないと思う。あと数ヶ月で変わってしまうが、現在の五千円札の肖像になっているし、中学だか高校の国語の授業でも一葉の名と『たけくらべ』が代表作であることくらいは習うであろう。ただし、それで一葉の文章を読んだ人はどのくらいいるのだろうか?
恥ずかしながら私は、生を受けて以来この方、一葉を一度も読んだことがなかった。

本棚の中には長らく2冊の一葉が収まっている。『にごりえたけくらべ』と『大つごもり・十三夜』の岩波文庫が…

今までなぜ読まずに積読されていたのであろうか。それは言文不一致の文語体で読みづらいと思っていたのだろうか。いつでも読めると思いながらそのままにしていたのであろうか。思い返してもはっきりしないのである。

なお、言文一致、不一致については「二葉亭四迷『浮雲』 - 著作堂文月の読書ブログ」を参照してほしい。

この三連休に少しでも積読本を減らそうと思い、薄い文庫本を手に取った。それが一葉の『大つごもり』であったのはただの偶然に過ぎない。
「大つごもり」とは「大晦日」のことであるから、1週前に読めばタイミングが良かったのだが、その時は読む動機がなかったので致し方ない。

それはともかく、大つごもりより1週過ぎて手に取った一葉の『大つごもり』であるが、まずはこの一文を読んでいただきたい。

「井戸端に出れば月かげ流しに残りて、肌を刺すやうな風の寒さに夢を忘れぬ、風呂は据風呂にて大きからねど、二つの手桶に溢るゝほど汲みて、十三は入れねばならず、大汗に成りて運びけるうち、輪宝のすがりし曲み歯の水ばき下駄、前鼻緒のゆるゆるに成りて、指を浮かさねば他愛の無きやう成し、その下駄にて重き物を持ちたれば足もと覚束なくて流し元の氷にすべり、あれと言ふ間もなく横にころべば井戸がはにて向ふ臑したゝかに打ちて、可愛や雪はづかしき膚は紫の生々しくなりぬ、」
なんと悲しくて、侘しくて、そして美しい文章なのだろう。

主人公のお峯は白金台町(現在の港区白金台)の貸し長屋百軒もっている富豪の家で女中をしている。父母早くに亡くして、小石川初音町(現在の文京区小石川1丁目・2丁目あたり)「世をうぐひすの貧乏町ぞかし、」で八百屋(と言っても棒を担いで歩き売りの)を営んでいる伯父夫妻に親代わりになってもらい育ててもらった。
「六畳一間に一間の戸棚只一つ、箪笥長持はもとより有るべき家ならねど、見し長火鉢のかげも無く、今戸焼の四角なるを同じ形の箱に入れて、これがそもそも此家の道具らしき物、聞けば米櫃も無きよし、」といった貧しい長屋に住んでいる伯父が病と聞いて見舞いに行く。
「堅焼きに似し薄布団」にて臥せっている伯父より話を聞けば、「高利かしより三月のしばりとて十円かりし、」、「九月の末よりなれば此月は何うでも約束の期限なれど、此中にて何となるべきぞ、」と苦労を聞かされる。
伯母は針仕事の内職をしているが、「日に拾銭の稼ぎも成らず、」で、甥っ子の三之助には、「貧乏なればこそ蜆(しじみ)を担がせて、此寒空に小さな足に草鞋をはかせる親心、察して下されとて伯母も涙なり、お峯は三之助を抱きしめて、さてもさても世間に無類の孝行、大がらとても八歳は八歳、天秤肩にして痛みはせぬか、足に草鞋くひは出来ぬかや、堪忍して下され、」と。
「をどりの一両二分(「をどり」とは利息。明治に入り一両=一円になったので、一両二分は一円五十銭)を此処に払へば又三月の延期にはなる、」、「大道餅買ふてなり三ケ日の雑煮に箸を持たずは出世前の三之助に親のある甲斐もなし、晦日までに金二両(二円)、言ひにくゝ共この才覚たのみ度よしを言ひ出しけるに、」と言われてしまい、お峯は伯父夫妻に2円の金の工面を約束してしまう。

カギ括弧内は原文からの引用であるが、ここまでが前半である。
先に書いたように文語体なので読みづらいと思うが、口に出して読むとリズムが取れるのでなんとなしに文章が分かってくる。ただし漢字は我々が一般的に使っている読みと違う部分があるので、ルビが振ってある原著を読んでいただきたい。

後半部分を簡単に書くと、奉公先の御新造(ごしんぞ=奥様)さんが管理をしている20円の束から2枚をくすねることになる。
「拝みまする神さま仏さま、私は悪人になりまする、成りたうは無けれど成らねば成りませぬ、罰をお当てなさらば私一人、遣ふても伯父や伯母は知らぬ事なればお免しなさりませ、勿躰なけれど此金ぬすませて下されと、」

この富豪の家は毎年大晦日にはすべての家の金を勘定して封をするという習慣がある。御新造さんがお峯に奥の間にある20円が入っている(はず)の硯箱を持ってこいと言う。
「御新造が無情そのまゝに言ふてのけ、術もなし法もなし正直は我身の守り、逃げもせず隠られもせず、慾かしらねど盗みましたと白状はしましよ、伯父様同腹で無きだけを何処までも陳て、聞かれずば甲斐なし其場で舌かみ切つて死んだなら、命にかへて嘘とは思しめすまじ、それほど度胸すわれど奥の間へ行く心は屠処の羊なり。」
窮地陥ったお峯であるが…

これ以上のネタバレはやめようと思う。実はこの小説にはもう一人重要なキャラクターがいる。そのキャラクターとお峯のとった行動がスリリングな展開を見せる、いわばイムリミットに手に汗握るサスペンス小説の体を取っている。

下のリンクから紙の本を買って読むもよし、一葉は著作権がとっくのとうに切れているので青空文庫などで読むもよし、YouTubeには朗読が上がっているのでそれを聞くもよし(その場合は必ずテキストを追いながら聞いてほしい)、原稿用紙換算30枚弱の短編なので今少しのお時間を『大つごもり』に捧げてもよろしいかと…

読んでいただけたらきっと、一葉の文章の美しさと構成力、そして情景描写と心理描写に驚くことになると思う。
また、これは明治27年に発表された小説であるが、我々が抱いている明治よりもずっと江戸時代的に思えるだろう。しかし、維新よりたった20数年なのだ。さすがにちょん髷を結った者はいないであろうが、江戸期と変わっているのは刀を差している侍がいないことと人力車が町を往来しているくらいだ。明治初期と現代は人情の面ではさほど変わらない。れっきとした現代小説である。

この『大つごもり』より、樋口一葉のいわゆる「奇跡の14ヶ月」がはじまる。

岩波文庫 1989年 第13刷)

 

川端康成『水晶幻想』

ネタバレあり!

小説書きは必読!

川端康成と言えば『雪国』と『伊豆の踊子』が定番だと思うが、それだけしか知らないあなたはだいぶ世の中を損していると言い切れる!

いやいやいや…川端なんて昭和の文豪だろ。そんなの古くて読めんよ…と思っているあなた。チッチッチッ! あまいあまい。
きっとあなたが知っている川端より川端康成はそうとうぶっ飛んでいる! 嘘だと思うならこの『水晶幻想・禽獣』を読んでみい!
最近のヒット小説なんか目じゃないくらいぶっ飛んでいて、エロくてグロいのは請け合いだ!

ともあれ、この講談社文芸文庫には初期の…といっても『伊豆の踊子』よりあとの短編が8作入っているが、今回は新心理主義時代の『水晶幻想』(昭和6年1、6月)に絞る。

まず、文体だが6年前の有名な『伊豆の踊子』(大正15年)とは全く違っており、ほんの少し触れただけで血が出るような切れ味の鋭いナイフのような文体なのだが、文章はいかにも川端である。
実体験としての死産と流産…川端のほとんどの小説から漂う死の香りが通奏低音として常に流れている。また、「メタ小説」的な箇所が文末にあるのは注目すべきところ。

この作品はジェイムズ・ジョイス流「Stream of Consciousness(意識の流れ)」を活用した伊藤整の『蕾の中のキリ子』(昭和5年)を参考にしたらしいが、私は残念ながら『…キリ子』は未読である。したがってジョイス伊藤整川端康成の流れが語れないのをお許しを願いたい。

さて、この『水晶幻想』だが、わざとわけがわからないように書いてある。ここがポイント。これは「意識の流れ」を意識して書かれているためだが、登場人物が今、頭の中で何を考えているのかを羅列している。一部引用してみよう。

「『あら。』と、夫人ははじめて彼女の手に気がついて、(ああ、美しい私の手。一日に幾十度も洗う婦人科医の手。爪を金色に色どったロオマの貴婦人の手。虹。虹の下の青野の小川。)」川端康成『水晶幻想』, 講談社文芸文庫, 1992.4, p.95
――このように丸括弧のなかは「意識の流れ」を現わしている。

もう一度書くが、わざとわけがわからないように書いてある。小説冒頭の「プレイ・ボオイ」が犬の名前だと明確にわかるのは小説の中頃であるし、丸括弧内の心理独白は一人称であるからか欲しい説明が一切なく…いや、あえて説明はしたくはなかったのだろうと思われる節がうかがえる。

わからない語句や知らない情報を一つ一つ調べ上げたが、川端という作家の奇特な人間性がまざまざと垣間見られる思いがした。川端夫人が死産、そして翌年に流産したときに川端本人も興味があってかどうかはわからないが相当に調査をしたのであろう。「穿顱術」がどのような医術かわからずに調べたときには少々嫌気がさしたくらいだった。

『水晶幻想』で着目したい点が二つある。それは「色」と「音楽」である。

まずは、色。同じく「意識の流れ」を使用した前作『針と硝子と霧』(昭和5年)では「赤」(血の色)が効果的に使われいるが、『水晶幻想』では主に「白」である。純潔の色として捉えればいいのか、交配(妊娠)の喩としての精子の色として捉えれば良いのか、それとも偽善や薄情と捉えれば良いのか、解釈に悩むところだが、川端とは切っても切れない「死」と「獣」からなる五線譜の上に乗り、繰り返されるフレーズとして考えても良いのかもしれない。

そして「音楽」であるが、小説後半にクラシック音楽の作曲者名と川端自身がレコードで聴いていたのだろうか、具体的な演奏者名も記されている。

はじめはティート・スキーパ(文中ではスキイパ)が歌う「パリアッチのセレナーデ」(1926年、大正15年録音)

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次はエンリコ・カルーソー(カルウソオ)が歌う同じくパリアッチの「もう道化はやめだ」(1910年、明治43年録音)

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後はジャック・ティボー(ティボオ)のヴァイオリン、アルフレッド・コルトー(コルトオ)のピアノによるベートーヴェン(ベエトオヴェン)の「クロイツェル・ソナタ」である。(1929年、昭和4年録音)

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「(ほんとうに夫の間抜けた姿。コキュウの顔って、あんなものかもしれないわ。(後略))」川端康成『水晶幻想』,  講談社文芸文庫, 1992.4, p.126
――とあるが、「コキュウ」は「cocu:妻を寝取られた男」だろうから、レオンカヴァッロ作曲のオペラ『道化師(パリアッチ)』の2曲を文中に入れたのは実に効果的である。
「セレナーデ」を歌うのは劇中劇の中で人妻に恋する青年。「もう道化はやめだ」を歌うはその妻を寝取られる夫である旅劇団の道化師。

軽妙で美しいスキーパの声とドラマティックなカルーソーの声の取り合わせは『水晶幻想』の愛が壊れていく夫婦と見事にシンクロしており、「クロイツェル・ソナタ」のティボーとコルトーの構成力のある演奏は作中でも言及しているトルストイの同名小説(もちろんベートーヴェンの曲から着想を得たのは承知の上)の内容を読者に思い起こさせ、この幻想的な小説に暗喩を与えてリアリズムを植え付けようとしている。

しかし、当時これらのレコードを聴いていた、いわゆるインテリゲンチャにしか通じなかっただろう。先にも書いた通り、夫人の心理描写が一人称で書かれているために説明不足になるのは仕方ないし、それならば違う方法はなかったのかとなるのだが、これはこれで良いと川端は思ったのかもしれない。

当時の行き詰った文学を打開してくれたジョイスの『ユリシーズ』だが、川端は全てを理解して読んだのだろうか? きっと理解していないと思う。
溢れるように次々と連想される言葉に酔いしれ、まるで「クロイツェル・ソナタ」を聴くように紙の上に筆を滑らせたのではないか。
そこにフロイトジョイスに比べれば読みやすい講義録で得た知識を織り交ぜ、日本風の「新心理小説」を創ろうとしたと推測する。フロイトは『精神分析学入門』にこう書いている。「ことばは、もともと魔術でした。ことばは、今日でもむかしの魔力をまだ残しています。」フロイト,S.(懸田克躬訳)『精神分析学入門』, 中公文庫, 1973.11, p.14
――と。

川端は言葉の魔術師である。音楽も古代より魔術の一つであった。『水晶幻想』はまるで音楽のような小説だ。音楽を聴くのに理解は必要ない。だから、小説を読むのにも理解は必要ない。この小説もそのように思い書いたのではと思わせる。

講談社文芸文庫 2022年 第13刷)

 

永井荷風『来訪者』

ネタバレあり!

私より若い読者は永井荷風を読むのだろうか? そもそも私の世代でも怪しいのだが、どうなのであろう…
そんな私は荷風が好きである。
雑司ヶ谷へ墓参りにいくほど荷風が好きである。
…どんなところが好きなの? 艶っぽいところが…

艶っぽいといっても泉鏡花谷崎潤一郎とはまた違う。情緒というかなんというか…「色」とでもしておこうか。その「色」を使うセンスが飛び抜けている。
なにも男女の交わりの行為そのものを描くわけではない。思わせぶりなだけなのだが、そこに見える「色」が艶っぽいのである。

久しく荷風を読んでいなかったが、この『花火・来訪者』は読んでいなかったので買ってみました。
さて、この文庫本に入っている11篇のことをつらつらと書くとえらく長文になるので『来訪者』(昭和19年 - 発表は昭和21年)に絞りたい。

改めて思ったのは、荷風の小説は東京(江戸)の街の地理がわからないとつまらないだろうということ。
この『来訪者』は市川真間など千葉が半分舞台となっているが、やはり東京の街を知らないと小説の奥深さがわからないと思うのである。

荷風の作品の特徴の1つは街の名前・立地・風土・歴史・特色が物語に色彩を与えていることである。
荷風の代表作と言えば『濹東奇譚』だろうが、舞台は川向う(江戸東京の川向うと言えば隅田川の東である。濹=墨=隅)の向島玉ノ井。『来訪者』の重要な舞台は鉄砲洲。荷風が生まれ育った小石川。空襲で家が焼けるまで荷風が長く住んだ麻布市兵衛町(現在の六本木一丁目)4つの土地はいずれも性格が違う。また、荷風の作品に多く登場する浅草。浅草と向島は同じ下町と思われるかもしれないが、やはり違う。浅草でも浅草寺界隈と吉原ではまた違う。
なにが違うのかというと、その街の持つストーリーが違うのだ。

荷風は街のストーリをうまく使い分ける。

いかん、いかん。このままでは東京の街の紹介で終わってしまう!

さてこの『来訪者』だが、荷風には珍しく推理小説仕立てになっている。
それなのにネタバレあり! とはけしからんと思う人がいるかもしれないが、結局は推理小説になっていないところが面白い。

この小説は大きく分けて5つのパートからなっている。
Aパート:老齢の作家と家に出入りする木場、白井という2人の青年文士とのやりとり。
Bパート:知り合いの古本収集家から若き頃に書いた直筆本『怪夢録』に裏書をしてほしいと頼まれるも、贋作だと告げる(『怪夢録』のあらすじがまた面白い)。この直筆本は以前白井に貸したことがあり、白井はその帰りに木場の家に泊まっている。犯人は2人のうちいずれか… 贋作をつかまされた収集家は興信所に二人の身辺調査を依頼し、その報告書は老作家のもとにも届き、それを読みながら想像を膨らませる。
Cパート:老作家が報告書から想像を膨らませた小説内小説的妄想。主に白井視点の三人称。
Dパート:老作家は疎遠になっていた木場と白井を探しに街を歩く。白井が奇妙な生活をしている鉄砲洲の於岩稲荷(四谷怪談のお岩)あたりの探索。
Eパート:木場より白井の成れの果てを聞く。

起承転結でいったら起はA、承はB、転はD、結はEになっている。CパートはCパートで1つの短編小説となっており、その中に起承転結を持つ。また、Aパートだけでも別の小説とも読めるし、Bパートの中には『怪夢録』のあらすじと推理小説性を帯びるところに別のストーリーを見つけられる。

つまりは、虚構の中に虚構があり、また別の虚構がさらなる虚構を産んでいく、実験小説となっている。

これ以上書くのは野暮になるからやめにするが、白井が不倫をする女のどこかやくざな艶っぽさは、「ああ、荷風を読んだな…」と満足に足りる味わいがある。

現代の小説には見られなくなった艶っぽさを感じさせ、また老境になっても新しさを求めた文豪永井荷風の怖ろしさを感じる一作である。

岩波文庫 2021年 第2刷)